人はなぜ罪を犯すのだろう

人はなぜ罪を犯すのだろう。

罪というものを一言で表すのは難しいが、私は「不完全」であることが罪であると思う。

不完全であるとは、自分自身の本来あるべき自己イメージに対する積極的な逸脱のことである。

例をあげれば、本来ダイエットをしなければならない人が、そのあるべき自己に反した行動、すなわち間食をしてしまったといった場合である。

この時にその人は言いようのないモヤモヤした感情を抱く、それが罪の感情である。

私はつい最近この意味での罪を犯してしまった。

それはすなわち、スマホの課金である。

私は今は学生の身で、現状金銭面的な都合はほとんど親に頼っている状態である。

であるから、スマホの月の支払いも親に頼っている状態である。

私は2、3日ほど我慢したが、どうしても欲しいキャラがあってつい課金をしてしまった。

いや、我慢というレベルではない、あの時感じたの「飢え」である。

わたしは欲しい欲しいという狂おしいほどの飢餓感にあの時苛まれていて、その飢餓感から逃れるために課金をしてしまったのである。

どうしようもなかったと自分に対して言い訳することはできる。

だが、起こした行動は事実だ。

どんな動機であれ、罪は罪であり、その犯したところの結果は楔となって決して逃さず私の意志を雁字搦めにしようとする。

ではなぜ私はあの時あのような罪を犯したのか、そのことを推察してみようと思う。

欲望とは辞書的には、不足を満たそうと強く求める気持ちを指す。

水を欲するのは正確には欲求であって欲望ではないが分かりやすいのでこれを例にとろう。

水を欲する時、それはあなた自身の脳のある部位が水分の低下を伝えて、あなた自身に水を摂取するような行動を促す。

それは主観的には、あなたは自分に水が不足していて、それを満たそうと感じさせるであろう。

この心理は一般化可能である。

あなたが何かを欲しがる時、あなたはそれが自分の中に不足している、もしくは欠けていると感じるはずである。

そしてその心理が十分に強い時、あなたは「飢え」に似た感情を抱くのである。

ではなぜ私自身の欲望が軽い物欲にとどまらず、それが飢餓にまで行ったのかを考察してみる。

人間とは社会的動物であって、本来的には一人で生きられない動物である。

であるから、通常我々の脳には孤独を厭う機能が付いていて、我々が所属している社会集団からの離別を妨げようとする。

その機能の一つが愛着である。

愛着とは、生物が生物に対して抱く心理的一体感であり、換言すれば、互いの互いに対する親密な信頼関係のことである

思うに、この愛着の不足が、物欲一般の飢餓感情につながっているのではないかと推察する。

なぜなら、現代においては、親密な対人関係を築くことの困難さにより愛着関係が不足しがちであり、そしてそういった人々は大抵何らかの空虚感を胸中に抱きながら生活しており、そしてそういった人々はそういった事実を知りながらもその空虚を埋め合わせることができないからである。

であるから、彼らは埋められない空虚を埋める代わりに他の代理物を探し出す。

それは時として食物であったり、服であったり、あるいは金銭であったりする。

だが、愛着によって得られる感情とそれらを獲得する時の感情は本質的に異なるものである。

であるから、彼らはいくらそれらのものを獲得しようと日々尽力しても、決してそれを埋め合わせることができないのである。

そしてこのことが飢餓感を生む。

一時的な満足は確かに得られ、そしてその時は彼らの持つ空虚感は満たされたかのように感じる。

だがそれは錯覚であって、決して彼らは己の空虚感を満たすことができないのである。

以上述べたことが初めに述べたような私自身にも当てはまるのである。

私はいつも空虚感に苛まれていて、そしてその空虚を埋め合わせようと強く感じる。

その感情は私自身の罪を犯すことに対する忌避感をも時として上回るのだ。

その結果、私はあのような罪を犯したと考えられるのである。

人気にんにくサプリメント